「自分が少なくとも永遠の存在ではないと知っていながら、なぜ人間は生きてゆけるのだろう。私にはどうしてもこれが理解できない。」
なんてルーマニアの哲学者が言っていた。
最近この人の作品を読んでいて。
高二病だから有名じゃない方を好きになっちゃうな、ニーチェじゃないってこと。
人間は永遠じゃないなんて当たり前のことで、歳納もいつか死ぬわけなんだけどさ。
永遠じゃないならなんで生きていけるんだろうねって言われて、死への恐怖を覚えたの。
皆さんも今、ほん怖よりも怖がってると思います、怖くない人は死ぬ一歩手前まで行けば良いと思うよ。
永遠じゃないならせめてそれを遅らせるために、死ぬまでの時間を濃厚に過ごすべきなんじゃないかなって思う。
死=老い=時間の経過って三段論法ね。
でも結局のところ日々漠然と漫然と時間を浪費しているせいで、一年前の今日が暑かったのか寒かったのかすら思い出せなくて、空虚。
(空虚って言葉カッコいいから今日は絶対使うぞと決めて開きました、はてなブログ。)
その辺の時の流れみたいなものって昔の人のが優れてたんじゃないかな、なにせ肌で時間を感じ取らなきゃ作物死ぬし、生死に関わるわけですし。
退化すんなよ、人間。
なんか歳納って時間の話ばっかりしてない?
気持ち悪いな、そろそろ克服してほしい。
だから最近も友達に「これは永遠です」なんて言って文机をプレゼントしちゃうんだよ。
そんな時にある人が一年前のツイートを引用して「今年の私は一年前の私よりヒートテックを着るのを我慢できたよ偉いね」なんてツイートしていて。
あぁ、Twitterが歳納の記憶の代わりだな。
ありがとうTwitter社。
って満足して寝ました。
すなわちTwitterがあれば歳納は永遠ってわけ。
まあ、この前アカウント消して作り直してしまったんですけれども。
つまりはそれもキリストの再来ってわけ。
死への恐怖をTwitterで克服するなんて、如何にも現代チックで皮肉が効いてると思わない?
そんな歳納は駐禁切られそうになりながら買った酒を飲んで偶にTwitterを見ながら、この文章を書いています。
酒を飲んでいる間は時間の経過なんて気にせずに居られるからね。
つまり酒とTwitterは歳納のメシアである。